プロフィール

自己紹介:片桐史裕(かたぎりふみひろ)

生年月日: 1966年6月19日

出身地: 新潟県新潟市

プロフィール

私の履歴書

researchmap(研究者の業績一覧)

 

1966年(S41)6月19日生まれ

1973年(S48)

 新潟市立上所小学校入学

1979年(S54)

 新潟市立鳥屋野中学校入学

1982年(S57)

 新潟県立新潟高等学校入学

1985年(S60)

 同 卒業

1985年(S60)

 新潟大学人文学部入学

1989年(H元)

  同 卒業

2002年(H14)

 上越教育大学大学院学校教育研究科学校教育専攻学習臨床コース学習過程臨床分野入学(内地留学制度)

2004年(H16)

 同 修了

 


職業: 大学教員

 

六日町高校(初任)1989年~1993年(H1~H5 5年間)

 

同期の初任者は部活動指導に一生懸命であり、その指導の実力もあった。私はそれもなく、学校で何をすればよいのかよくわからない状態だった。

 

受験問題演習(1989年~)

 「自分は受験用の国語はしない」とは言いながら、子どもが食いついてくるのが結局受験国語なので、「簡単な文章の読み取り方」のようなノウハウを授業に取り入れていたような気がする。

 

古典の音読(1989年~)

 音読の課題は初期からおこなっていた。漢文だったら白文を、古文だったら全て平仮名書きのカードをひかせ、ひいたものを1~2分で音読できたら合格ということをしていた。授業外でもおこない、教務室には私の机の近くに生徒の長蛇の列ができた覚えがある。(周りの教員にとっては迷惑な話だったなぁ。)

 

ショートショートサークル(1990年)

 部活動で子どもたちを引きつけられない、魅力ある授業もできないということで、自分にできることは何か?と考え、自分は少なくとも子どもたちよりも小説を読んでいると考えついた。そこでショートショートをみんなで読む会を作った。第1回には約10人の生徒が集まった。筒井康隆のショートショートを紹介し、意見、感想を述べた。なかなか盛り上がったが、結局開催したのはこの1回のみだった。

 

古典文法小テスト(1990年頃~1996年)

 週1回程度動詞・助動詞の活用の小テストをおこなった。担当全クラスでおこない、採点の量は膨大となった。点数を集計し、ランキングをつけ貼りだした。

 

読み研(1993年頃~1996年)

 小説の指導方法がまったくわからず、読み研方式というものに高教研で出会った。そして新潟県内で開催される研修会に毎月のように出かけていた。本も買いあさり、文章の科学的な読み方に初めて触れた気がした。それを取り入れた授業をおこなうようになる。

 

グループ学習(1994年~)

 六日町高校時期の最終年、グループ学習を初めておこなった。それまでは完全なる一斉授業で、教室の机を合わせるという発想自体がなかった。そのため、自分にとっての初めてのグループ学習(詩の解釈)は、図書館でおこなった。図書館であれば1つの机に数人が向かい合いながら座るという形に初めからなっており、グループ学習がしやすいと考えたからだ。(しかしそんな配慮はいらないことにまったく気づかなかった。)

 

十日町高校1994年~1996年(H6~H8 3年間)

 

ワープロ指導(1995年~1996年)

 学校に生徒用パソコンが(2人に1代程度)導入されて、授業でも使えるようになった。3年選択国語の授業の年度末最後の方の数時間を使って、ワープロ指導をしてみた。考えてみれば自分がワープロ指導をしたのは、この時だけかもしれない。

 

ディベート(1995年~)

 なにかの本や、どこかの研修会でディベートに出会った。「これだ!」と思い、本を買いあさり、自己流で学んだ。1995年に授業中に取り入れ始めている。1996年にはクラスごとにディベート大会を開き、本格的に導入した。実際に自分が教室ディベート連盟の講座を受けるのは、1997年である。1998年には、堀之内高校で時間をかけ体系的にディベートに取り組んだ。

 

堀之内高校1997年~2001年(H9~H13 5年間)

 

プリント学習(1997年~)

 授業はプリントを作り、そのプリントに沿って進めるようになった。授業案(頭の中での)作りは、プリント作りだった。材料を与え、場を作れば、何も言わなくてもそれに沿って子どもたちが活動することを理想としていた。

 

朝の読書(1997年~)

 1997年の2学期から3年生の授業開始10分間を読書の時間に割り当てるようになった。

 

マンガ(1997年~)

 取り扱う教材に関連したマンガを買いあさった。特に古文・漢文に関して、教科書に載っているものはほとんど集めた。マンガ収集家となってしまった。それをコピーし適度にプリントに配置した。

 

ジュニアアチーブメント(1998年~2001年)

 何とか子どもたちを引きつける道具はないか?と思い、たまたま見ていた教育テレビに出ていたのが、ジュニアアチーブメントであった。さっそく問い合わせ、学校に来てもらい講習会を開き、プログラムソフト(MESE)を何とか手に入れた。その後授業で使ってみるが、結局のところ本当の話し合いの道具にはならなかった。ひときわおもしろいプログラムではあったのだが。

 経済感覚を学んだのもこの時期である。ジュニアアチーブメント主催の経済教育研修会に2年間連続で参加した。夏休みの約1週間を東京で過ごすものであった。

 商業科の担任をしていたせいもあり、経済と国語を結びつけて、考えるようになってきた。いや、国語を経済学的に考えるようになってきた。

 今ではジュニアアチーブメントとの繋がりは全くなくなってしまった。

 

答えを言わない(1998年頃~)

 答え(正解)を示さず、自分で考えさせ、もし答え(正解)にたどり着かなくても、それほど気にしなくなったのはこの時期からである。初めの実践は、作文(コボちゃん作文)で、4コママンガを文章で表現するというものであった。評価の観点をもとに点数を付けるだけで、どこが良く、どこが悪いかは一切言わなかった。周りの人と見比べて、修正してもOKだし、そのままでも良いことにした。周りの人と見比べることで、答え(正解)を探りだそうというのがねらいだった。答えをすぐに言ってしまうと、思考停止が起こるんじゃないかな?という考えから編み出した方法だった。

 

NIE(1999年頃~)

 新聞は以前からたまに授業で活用していたが、NIEの研修会に参加するようになったのはこの頃からである。そのうち研修会で実践発表や模擬授業をするようになった。

 

1999年3月放映 NHK教育トゥデイ「メディアと教育」 《メーリングリストの活用》

 

1999年3月新潟県教育センター実践課題研究(国語)報告 《ディベート》

 

群読(2000年~)

 国語の授業は声を出して始まると昔から思っていた。その究極の実践が群読である。群読の本を書店で見つけ、ぜひとも実践してみたかった。しかしなかなか実践のハードルを越えられなかった。CD付き群読の本を手に入れ、それを聞いてみた。そうすると自分でも指導できるような気がしてきた。選択国語表現で実践をし、それをビデオやオーディオテープに記録し、故家本先生に送ったところ、全国大会での実践発表を依頼され、そして日本群読教育の会に入ることを勧められた。今では全国大会を開催する側になっている。

 

新潟県央工業高校2004年~2010年(H16~H22 7年間)

 

教室学び合いフォーラム(2005年~)

 新潟市で「学び合い」を広めるためには、新潟市で会を開こうという主旨で、動き始めた。メインは公開ゼミだ。西川研究室でおこなった全体ゼミを、たくさんの教師に参加してもらって、おこなうということである。子どもの動きをじっくり分析しようというのがコンセプトである。第1回44名、第2回98名の参加。

 

授業研究会(2005年~)

 どうすれば、子どもたちの芽を摘まない授業をする教師を増やせるかを考えるようになってきた。そのためにはこちらの手の内を全てさらけ出し、教師に見てもらい、共感してもらうしかない。そのため、2004年10月から「新潟授業研究会」を立ち上げ、月1回の活動をしている。毎月1人、授業に関して話題を提供し、約2時間集まった人が話し合うのだ。

新潟授業研究会のwebページ

 

新潟中央高校2011年〜2016年(H23〜H28 5年間)

 

 

抵抗勢力との戦いの日々だった。「協働して学ぶことは,大学に行って学べばいい。大学受験に合格しながらも周りと協力する力を養う方法があったら教えてくれ。」と職員会議でおおっぴらに発言する管理職の下,協働して学ぶことに主眼を置く授業を進めるのは,至難の業だった。至難の業だったが,魂は売らなかった。全ての評価は模擬試験の偏差値。評価者の生徒や教員に対する基準は模擬試験の偏差値という雰囲気の中,3年間を過ごした。

 

少なくともクラスの生徒だけは守ろうと,クラス経営に力を入れた。

 

方針は「みんなの学びが意図せずとも誰かの力になる」

 

1年4組クラス目標「絆」,2年3組クラス目標「道」,3年4組クラス目標「鼓舞」

 

わかってくれた生徒もいるし,わかってくれない生徒もいた。学校の雰囲気は「1点でも点数を上げることが全て」だったから,反発した生徒もいた。それはそれでいいと思う。一人の力はみんなのためになるんだということはいつか気付いてほしいけれど,高校時代に気づかなくてもいい。生きていく上で必ず必要になってくることなので,そこで「周りに頼ってもいいんだ。」ということに気づけばいいし,「自分は周りのためになっていたんだ。」と確認できればいい。

 

高校教師最後の2年間は,管理職や同僚に恵まれて,私のやってきたことを少しは認めてもらえてきたので,報われる気持ちだった。放送部の顧問になり,映画も作った。

 

日本群読教育の会全国研究集会新潟大会(2015.7)

 放送部員が中心に実行委員,オープニング群読をやってくれて,参加者に喜ばれた。参加人数はそれほど多くなかったが,今までの研究集会の開催方法をちょっと変えてやってみた。

 

ショートムービー 「runrunrun」(2015.4〜2016.2)

 放送部の生徒を出演させ,4本の短編映画を作った。新潟市内の美しい風景のもと,「女子高生が走る」というコンセプトで,「誰かの何気ない行動が,意図せずとも誰かの力になる。」という主題で「spring」,「summer」,「 autumn」,「winter」という季節ごとに1本ずつ制作した。

上越教育大学教職大学院(教育実践高度化専攻) 准教授2016年〜(H28〜)

 

縁あって母校上越教育大学教職大学院の教員となった。